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マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ (1738-1789) : ミニ英和和英辞書
マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ (1738-1789)[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ (1738-1789) : ウィキペディア日本語版
マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ (1738-1789)[ちょうおん]

マリア・アンナ・フォン・エスターライヒMaria Anna Josepha Antonia von Österreich, 1738年10月6日ウィーン - 1789年11月19日クラーゲンフルト)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンと皇后マリア・テレジアの次女。成人した兄弟の中では一番の年長。終生独身のままウィーンで過ごし、母帝の没後クラーゲンフルトに隠棲してエリーザベト修道院への奉仕に身を捧げた。〔修道服を身につけた肖像画が残されているが、修道女にはなっていない。〕
==生涯==

===ウィーン時代===
マリア・アンナの誕生は、男児の誕生を望む皇帝一家とオーストリア国民を落胆させた。1740年から男児誕生までの間、彼女はマリア・テレジアの推定相続人と目されたが、1741年の弟ヨーゼフの誕生により、完全に日陰へと追いやられることとなった。
母マリア・テレジアは娘の中ではマリア・クリスティーナ(ミミ)やマリア・エリーザベト(リースル)を偏愛したが、マリア・アンナは母からの愛情を得ることができなかった。病気がちだった彼女には、結婚によるハプスブルク家の外交に貢献することが期待できなかったことが原因の一つとしてあげられる。加えて彼女は成長するにつれ背中の湾曲が目立つようになり、周囲から「せむしの皇女」との侮蔑と揶揄を受けるようになっていた。
マリア・アンナは絵画、ダンスやバレエ、音楽の才に恵まれ、ウィーン造形美術アカデミーやフィレンツェ芸術アカデミーに迎え入れられた。集中力、記憶力、勤勉さにおいても弟ヨーゼフを凌駕したが、未来の皇帝よりも優れた才能を持った皇女の存在は宮廷で疎まれた。1757年に大病を患ってからは、医師から楽しみとしていたダンスや狩猟などの運動を禁じられてしまった。
宮廷において彼女と同じく日陰者の身であった父フランツ・シュテファンが、彼女の唯一の理解者にして愛情を通わせ合う対象となった。父帝は娘の知性を愛し、2人は自然科学分野のコレクションや古銭学の研究などの趣味を分かち合った。父帝の亡き後、マリア・アンナはそのコレクションと研究を受け継いで発展させ、その成果はウィーン科学博物館の礎となった。しかし、学究能力が女性に求められる資質ではなかったこともあり、家族の中での彼女の評価は低いままだった。こうした境遇がマリア・アンナの性格を頑ななものにしていった。
ヨーゼフのパルマ公女マリア・イザベラとの結婚を、実妹たちに次ぐ新たなライバルの出現とマリア・アンナは受け止め、マリア・イザベラに冷たく接した。このことがヨーゼフが姉を嫌悪し、フランツ・シュテファンが娘を遠ざける原因となった。1763年にマリア・イザベラが天然痘でこの世を去ると、マリア・アンナは再び父との親しい関係を取り戻したが、1765年に最愛の父が亡くなると、その安寧な生活にも終止符が打たれた。
1766年、マリア・テレジアはマリア・アンナをプラハの貴族女性のための施設長に任じた。これによりマリア・アンナは2万グルデンの年金を得ることになったが、健康状態を理由に現地に赴任することはなかった。
1769年、唯一仲の良かった妹マリア・アマーリエがパルマに嫁ぐと、マリア・アンナはケルンテンクラーゲンフルトにあるエリーザベト修道院に入ることを願い出た。彼女が条件のよいプラハではなくクラーゲンフルトへ行くことを希望したのは、かつてエリーザベト修道院を訪れた際、誰も彼女の姿形に不快感を示さなかったことや、修道院長クーエンベルク伯爵夫人とマリア・アンナの間に交誼があったことなどが理由と考えられている。当初マリア・テレジアは難色を示したが、娘の熱意を受け入れ、エリーザベト修道院に隣接する土地にマリア・アンナのための城館を建設した。クラーゲンフルト住民は皇女の来訪を心待ちにしていたが、マリア・アンナが城館に移るまで、1771年の城館の完成から更に10年の歳月を要した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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